2007年10月18日(木曜日)

意見をもつことはたやすい

カテゴリー: - artNOMAD @ 13時17分09秒

『この時代に想うテロへの眼差し』スーザン・ソンタグ
 未来に向けて――往復書簡

 ご存知のように私は作家としての全生活を通じて、公然と自分の立場を表明してきました。アメリカの帝国主義とヴェトナムにおけるアメリカの戦争への反対などの政治的な立場しかり。文化的な立場はあまりにも多く複雑なのでここでは説明をはぶきます。広島・長崎の意味について書き始めたときのあなたがそうだったはずですが、私も立場を表明することは自分の義務だと感じたのです。サラエヴォが包囲されていた何年間にも、そこで自分を役立てる方法を探ることが義務でした。
 それでいて同時に、どう申しましょうか、意見をもつことはたやすい、安易すぎる、という自覚がありました。たとえ正しい意見でもそうです。
 論争の的となっている意見を支持すれば、支持者はいやおうなく有名になり目立ちます。たとえそれがその行為の目的ではなくとも。
 私がずいぶん前に自分に課したことがあります。自分がそれまで知らなかったり、この目で見たことがなかったりする事柄については、けっしてどんな立場もとってはならないと。ヴェトナムでの戦争については六八年と七三年にそこへ行っているので語ることができます。サラエヴォでもほぼ三年間にわたり相当の時間を過ごしました。アルバニアにも最近二度滞在しました。
 善意があっても思慮深くとも、直接の体験の具体性にとって代わることはけっしてできません。リアルなものの衝撃。私たちはフィクションの作家としてこのことを知っているのではないでしょうか。


2007年6月3日(日曜日)

Untitled01

カテゴリー: - artNOMAD @ 00時36分51秒

Untitled01


2004年9月13日(月曜日)

世界コミュニケーションの時代(6)

カテゴリー: - artNOMAD @ 19時38分31秒

メディアテクノロジーの齎す隷属的状況に一石を投じたのが、「フリーソフトウェアー」や「オープンソース」などのプロシューマー的な活動であり、プログラムソース(構造)の持続的公開により、ユーザーが隷属状態に陥ることを防止することを可能にした。インターフェイスの分野においても「クリエイティブ・コモンズ」といったライセンスが生まれることとなった。「クリエイティブ・コモンズ」においては、コンピューター・プログラムとは違った、様々な状況に対応可能にするため、先の「フリーソフト」や「オープンソース」ライセンスに比較すると、第三者に対する自由度を下げることもできるが、デザインなどの共有の可能性を示す試みであることには間違いなく、これらの活動によって、ユーザーインタフェイスの向こう側を見ることが可能となった。


2004年9月12日(日曜日)

世界コミュニケーションの時代(5)

カテゴリー: - artNOMAD @ 07時19分33秒

なぜここで芸術とデザインを区別しなくてはならないか。
「ユーザーインターフェイス」という言葉の裏には、構造や論理を隠蔽するという機能が隠されているーーこれは真実を隠す機能と言い換えることができる。世界は複雑になり、到底理解出来ないという挫折感が蔓延していく。フレンドリーなデザインが世界の全てとなり、現実は強迫観念に変化する。演出が表出にとって代わり、<みずから進んでユーザーという隷属状態の立場に立つのだ。>

デザイン学が、美学に取って代わって、美とは「良い形」だと定義する。しかし、注意していただきたいが、それによって美という問題が解決されたわけではなく、うまく隠されたのにすぎないのだ。だから、われわれは、こう問うことができる。芸術における <フォルムによるゲーム> を、デザインにおける「良い形」から区別するものはなにか?クライヴ・ベルの言うように、デザインのーー使用の文脈において明らかになるーー<良い形> を、芸術の「意味深い形式」から区別することもできよう。良い形は、情報を抹殺する。<意味深い形式> は、さまざまの形式の、一個の枠のなかでの組み合わせを実現する。もっと原理化して言えば、デザインはつねに文脈におけるデザインであり、芸術はつねに枠づけされた芸術である。つまり、デザインが使用の世界から抽象できるものではないのに対して、芸術は使用の世界を捨象しなければならない。<良い形> は、日常的な近くにおいて(物事を[行為者の立場で、つまりファーストオーダーで]見ることにより)明らかになる。<意味深い形式> は、<セカンドオーダーの知覚>(事物を[日常を離れた観察者の立場から]注視すること)へと刺激する。


2004年9月11日(土曜日)

世界コミュニケーションの時代(4)

カテゴリー: - artNOMAD @ 00時08分56秒

世界像の時代においては、芸術とデザインの差異がきわめて小さくなる。世界が計測可能だということは、全ては複製可能となるからだ。複製技術の発展とともに世界が像となったことは深く繋がっている。しかし、現在のメディアテクノロジーにおいて、それらは人間の言葉では理解できないバイナリーコードとなった。世界コミュニケーションの時代を生き抜くためには、芸術とデザインとの違いを認識しなければならない。

芸術とデザインの違いについて、ノベルト・ボルツは述べている。

ーー芸術は、外部的効果なしに存在する。おそらく、次のことがいえるにすぎない。すなわち、芸術にかかわる者は、潜在的なものを観察するという高度な技術=芸術を鍛えるのだ、と。芸術は、「脱構築」の意味での観察を行うのである。
ーーこれに対して、デザインは、意味づくりである。具体的に言えば、デザインはインターフェイスの展開にとどまるということだ。「奥の深いデザイン」というのは、すくいようもなく馬鹿げた自己認識である。

ここで重要なのは彼の考察の内容ではなく、芸術とデザインとを区別しなければならないという意思である。




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