飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?
The Naked eARTh Dayで行うアースデイ・トークのテーマにした『崩壊する地球環境の前で表現は有効か?』はサルトルの問題提起「飢えた子供がいる時に……」に倣っている。サルトルの問題提起に関して書かれている大江健三郎の『厳粛な綱渡り』にある「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」を再読した。25年程前に早稲田にある本屋でこの問題提起について特集した雑誌を見かけた。「早稲田文学」だった気がするが、確かではない。その頃わたしはあまりに若く、この強烈な問題提起を受け入れる心の準備さえ出来ていなかった。わたしも「ひとつの連続性の範囲のなかで」変わってきたのだと思う。できれば、イベントまでに国会図書館で調べてみたいと考えている。
……しかし突然に私は形而上的な悪は、ぜいたくというもの、二次的なものであって、疎外や飢えや搾取こそが真の悪なのだということを発見したのだった。……私は世界が変われば、物事はうまくゆきはじめると考える側の人間だ。……まず最初に人々は、その存在の条件を改良して、人間になることができなければならない。そのあとで普遍的な道徳が創造されうるのだ。まず人間の解放が第一である。
どのような作品がそれにたいして有効なのか? という問いにサルトルは、それこそ正確に作家の問題だ、と答える。『レクスプレス』紙が二人の作家の反駁の掲載の際、このインタビュー記事から抽出する問題点も、この部分である。
……飢えた世界で文学がなにを意味するか、道徳がそうであるように、文学もまた普遍的である必要がある。したがって作家が、すべての人間にむかって話しかけ、すべての人間によって読まれることを望むなら、かれは大多数の人間の側、飢えている二〇億の人間の側に立たねばならない。さもないと、かれは特権階級のために奉仕することになる。……作家が飢えている二〇億のために書くことができない限り、かれは不安な気分になやまされるはずだ。私が作家に求めるのは、現実と、存在する基本的な問題を無視しないことである。世界的な飢え、核兵器の脅威、人間の疎外などがわれらの文学すべてに影響をあたえつくさないことに私は驚く。
……すべての人間がそうであるように、私もまた、ひとつの連続性の範囲のなかで変わってきたわけですよ。
ぼくは、《飢えた子供がいる時に……》という考え方の極に定住することはできないし、個人的な自己救済の極に定住することもできない。そのあいだをつねにフリコ運動しているという感覚が、ぼくにとってもっとも普通な作家としての職業の感覚だ。そして、フリコ運動の水平面への投影の軌跡が地球の自転によってゆっくり方向を変えつづけるように、ぼくもまた、ひとつの連続性のなかで変わってゆくことを望むほかはないと考えるのである。
大江健三郎「厳粛な綱渡り」飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?より抜粋
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