2005年7月5日(火曜日)

「パブリック」と「マス」の違い

カテゴリー: - artNOMAD @ 00時53分39秒

マーシャル・マクルーハン。『機械の花嫁』『グーテンベルグの銀河系』といった三流SF映画のような題名が胡散臭いのと、妙に高い本の値段が、、、とにかく読むならグーテンベルグからだと、この高い本を買う気になるまで頭の隅っこに置いてはいたが、そのまま結局20年以上読むことが無かった。先日、ちくま学芸文庫から出ているW.テレンス ゴードン著の『マクルーハン』を立川ルミネの本屋で目にしてつい買ってしまい、グーテンベルグから始まる理想は失われてしまった。『マクルーハン』はマクルーハンの発表した主要なキーワードをマンガ入りで解説してあるマクルーハン入門のような本で、これまた胡散臭い。とりあえず次ぎに進もうと平凡社ライブラリー『マクルーハン理論─電子メディアの可能性』M.マクルーハン+E.カーペンター編著 を購入した。この本におさめられた論文はマクルーハンとカーペンターが刊行した「Explorations─探求」というコミュニケーション専門誌からとられ、執筆者は10人を越えている。

(原書にはおさめられていない)マクルーハンの『テレビとはなにか』という論文の一節に、パウル・クレーがバグハウスの講義で語った「芸術には大衆が必要だ」という言葉の本質を捉えるヒントを見つけたように思う。(このクレーの言葉はずっと気になっている。世界が一変するようなことかもしれない。もちろん、大衆芸術とか、エンターティーメントとかそういう話ではない。)

─テレビとはなにか─ 「パブリック」と「マス」の違い M.マクルーハン

 さてここで「パブリック」と「マス」の違いを考えてみよう。今日われわれは始終「マス」という言葉を耳にする。「パブリック」との違いはフォックストロットの空間とフルーグダンスの空間の違いに似ている。あらゆる人が小さな視点(ポイント・オブ・ビュー)をもち、自分だけのプライベートな空間の小さな断片をもっている世界が「パブリック」である。
 「マス」ではすべての他の人に関わりをもち、そこには断片化も視点もなくなる。「マス」は量ではなくてスピードの要因である。これは文字の意味からも技術的にいっても正しい。「マス」はスピードと同じものを読み、同じことを同じときにするあらゆる人びとによってつくり出される。これはあらゆる物質、あるいは粒子は、光のスピードで無限の「マス」を獲得しうるというアインシュタインの考えに似ている。
 どんなささやかなニュースもエレクトロニクスによるスピードで無限の潜在力をもつことになる。おんなじものでもエレクトロニクスで可能になったスピードによって重大なものとなるのである。「マス・オーディエンス」というのは、あらゆる人が経験をともにし、ともに参加し合って、だれもプライベートな個人的性格をもたない状況にあるオーディエンス[聴衆]である。
 だからこそ今日、精神分析医の病院の診察用の椅子は、「私はだれなのか、教えてください」と尋ねる人びとの重みにうめいているのである。個人的な自己同一性(アイデンティティ─)は感じられない。電子のスピードによって人はプライベートなアイデンティティをもたないようになるのである。これは良いことか、悪いことか、といった質問をすべきではない、これはエレクトロニクスで獲得されたスピードが必然的に果たす働きなのである。それに私は、われわれが途方に暮れなくてはならないとも思わない。われわれは決心さえすれば、やれることがあるのである。
 「ザ・パブリック」というもの、あるいはモンテーニュが呼んだところの「ラ・ピュブリーク」というものは、一六世紀、印刷術の登場によって成立した。それは中世期には存在しなかったし、また今日も存在しない。エレクトロニクス的条件の下では、「公衆(パブリック)」は存在しないのである。存在するのはあらゆる人が相互に深く関与し合う「マス」なのである。
 全面的に相互に関与し合い、形而上学的に統合された全体という性格をもつ「マス」の真っ只中にあって、人はどのように身を処することになるのであろうか。この問題をだれも考えていない。私自身としては、このことを嘆いてみたり、喜んでみたりしても、どうにもならないと思う。これは現実に生起していることがらなのである。それは一つの「ハプニング」である。多くの人びとは、この状況を他の状況に、世界のどこかの状況、いつかの時代に比べて、満足したり不満だったりするだろうが、私はそういうことには根拠がありえないと思っている。
 モンテーニュは「公衆(ピュブリーク)」を発見した最初の人だが、彼はまた自己表現を発明した最初の人であった。『エッセイ』の中で彼はこういっている──「私は公衆に私自身の完全なポートレートを負うている」。「パブリック」が成立すると、著者(オーサー)というものが成立する。著者が存在しないうちは、「パブリック」は存在しない。両者は相互依存関係にある。したがってモンテーニュが「ピュブリーク」を発見したとき、彼は同時に自己表現を発見したのである。
 今日、「パブリック」が存在しない以上、自己表現は意味を失う。存在するのは「マス」だけである。自己表現に芸術的な重要性を賦与する人は、一六世紀あるいは一九世紀において発言しているのであり、現代について発言している人ではない。エリート芸術対マス・アートという批判的論議は、そこで問題になるべきテクノロジーを無視しているので、現実と関わらない議論となる。


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