2004年7月26日(月曜日)

九鬼周造の「いき」と「野暮」

カテゴリー: - artNOMAD @ 05時39分00秒

『「いき」の内包的構造』で九鬼周造は、いきの徴表を三つに分類しています。

1、媚態としてのいき
*一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度

2、意気地としてのいき
*媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識

3、諦めとしてのいき
*現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心

それらを統合して、いきを「垢抜けして、張りのある、色っぽさ」と定義しています。

また、野暮であることも、いきであることの二元的対立であり、それらは切り離せない。ある事象をいきと感じるか、野暮と感じるかは趣味の相違であるとしながらも、いきは有価値的、野暮は反価値的であると言っています。

そして、最終的にいきの意味について、「理想体の一元的平衡を打破して、変位の形で二元性を措定することにある。」と定義しています。二元的なものを決して合一することが出来ないものとすることにより、相対性を脱し、絶対性に達することに、九鬼の目論見がありました。

ハイデッガーに学んだ九鬼は、師に対し、「いきの構造」の草稿である「いきの本質」を披露しました。アジアの美を西洋の概念や言葉で語る九鬼に強い違和感を持ったハイデッガーは、後にも『言葉についての対話 ー日本人と問う人とのあいだのー』という論文の中で、「こういうやり方では東アジア芸術の本来の本質が隠蔽されてしまい、その芸術にふさわしくない圏内にずらされてしまうのではないか、と案じるのです。」と危惧の念を表わしています。それはハイデッガー自身の哲学が西洋の枠内にとどまっていることを自ら意識して思索を続けていたにもかかわらず、(それは東洋に対する尊敬や憧憬の念でもあったはずです。)日本人が依って立つ「いきー美」について、西洋の概念やことばで語ろうとする九鬼の「野暮」を理解できなかったためではないでしょうか?

開国以降、西洋に対する危機感によって、日本を西洋の概念や言葉で語ることを急がなければならなかった、この時代の人たちの積極的な間違いを再認識し、本来の美の源泉を見いだす扉が「いきの構造」にあるのかもしれません。


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