ゴッホ通信2
「烏のいる麦畑」について、、、。
残念ながら、岩波文庫 「ゴッホの手紙」には「烏のいる麦畑」の日記は載っていなかった。一八九〇年七月十日(ころ)のテオに宛てた手紙だ。
「・・・さて、還ってきてからまた仕事にとりかかった。絵筆はどうやら僕の指から滑り落ちそうだが、描きたいものは正確に知っている。あれ以来大きいものを三点仕上げた。荒れ模様の空の下の麦畑の大きなスケッチだが、悲しみと侘しさの極点とを表現するのに、常のやり方を逸脱する必要はなかった。やがて君に見て欲しい。できるだけ早くパリに持って行きたいと思っている。これらの絵は、僕が田舎で見ている健康と精力的なものに関し、口ではとても言えぬものを、君に語るだろうと思っているからだ。」
角川文庫 「ゴッホの手紙」小林秀雄 昭和三十二年
「・・・あれから、ここへ帰ってきてまた仕事にとりかかった──絵筆がほとんど手から落ちそうだった、それでも──自分の望むものはよくわかっていたので、あれからさらに三点の大きなキャンバスを描き上げた。それらは不穏な空の下の果てしない麦畑の広がりで、僕は気がねせず極度の悲しみと孤独とを表現しようと努めた。これは近いうちに君たちも見られると思う。僕はこれらをできるだけ早くパリの君たちのところに持ってゆこうと思っているからだ。それというのも、これらの絵は僕が言葉で語ることができないもの、僕が田舎で目にする健康によいもの、活力を与えてくれるもの、そうしたものを君たちに語ってくれるだろう。ほぼそんな気がするからだ。」
みすず書房 「ファン・ゴッホの手紙」二見史郎編訳/圀府寺司訳
ふたつの翻訳はニュアンスが少し違っているが、ここに書かれていることで一番重要なのは、絶望や孤独を表現することと、表現者が絶望し孤独の殻に閉じこもっていることは、決して同じではないということだ。
同じ時期に、オランダに暮らす母と妹に宛てた手紙がある。
「・・・僕の方は丘を背景にした小麦畑の果てしない広野にすっかり心を奪われています。海のように広大で、微妙な黄色、微妙な柔らかい緑、耕やされ、草取りされた地面の一角の微妙な紫色、そこに花の咲いた馬鈴薯の緑で規則正しく斑点模様がつけられ、これらすべてが微妙な青、白、ピンク、スミレ色のトーンの空の下にあるのです。僕はほとんどあまりにも大きすぎるほどの静けさの気分、こうしたものを描くのにふさわしい気分にすっかりなりきっています。」
みすず書房 「ファン・ゴッホの手紙」二見史郎編訳/圀府寺司訳
「絶望や孤独=あまりにも大きすぎるほどの静けさの気分」を「描くのにふさわしい気分にすっかりなりきって」いただけなのだ。ゴッホは決して絶望してはいない。
絶望に取り憑かれた狂人の遺作として世間に知られている「烏のいる麦畑」。
しかし本当の遺作は、「ドービニの庭」だ。
「ドービニの庭」という作品も同じ構図のものが二つあったりして、しらずしらずのうちに色眼鏡で見てしまうものだが、ここでは詳しく触れない。とにかく「ドービニの庭」は絶望や孤独のうちに描かれたものでも、絶望や孤独を表現したものでもない。
テオへの最後の手紙に「ドービニの庭」について記している。
「ドービニの庭。
緑とピンクの草地の前景、左手に緑とリラ色の灌木の茂みと伐採して葉が白茶けた植木のひとかたまりの粗。真ん中はバラの花壇。右手には柵と土塀、その塀の上方に紫色の葉のハシバミの木が一本。
さらにリラの生垣、一列の丸い形の黄色のボダイジュ。奥の方の。家自体はピンクで、青っぽい瓦の屋根。ベンチが一つと椅子が三つ、黄色の帽子に黒ずくめの人物が一人、そして前景に黒猫が一匹。薄い緑の空。」
みすず書房 「ファン・ゴッホの手紙」二見史郎編訳/圀府寺司訳
この時期、ゴッホは確かに不安や、絶望や、孤独を感じていたに違いない。しかし、果てしない広野に立つこと。そしてそれを描き写すことは不安や、絶望や、孤独を乗り越えることに他ならない。そしてその行為はあくまで「健康的」だ。「烏のいる麦畑」「荒れ模様の空の麦畑」を完成させた後にゴッホは「ドービニの庭」に向かったのではないか。
(ゴッホは一八九〇年五月二十日オーヴェール・シュール・オワーズに来たときから、「ドービニの庭」を描くことを計画していた。)
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